第182回 漫友会 NINJAめぐり

実施日 5月10日(金)11:30~19:00

集  合 JR千駄ヶ谷駅   11:30

参加者
 (敬称略) 

山下晃生(牛久)戸谷輝夫(取手)、吉野 博(水戸)、芳士戸 稔(つくば)、
中嶋 繁(野田)、田口春一郎(取手)、平川清治(松戸)、五島周太郎(鎌ケ谷市)、
上田 進(柏)、大島耕而(千葉市)野尻正(八千代)、小森孝敏(幹事/竜ヶ崎)  
                                                12名

行  程

JR 千駄ヶ谷駅~甲賀稲荷社~四ツ谷駅~西念寺
~昼食~祥山寺~赤坂見附駅~鈴降稲荷神社
~新宿駅~手裏剣道場~上野駅~懇親会:「柚柚」

内 容  忍者とは、忍者が史料上確実に存在が確認できるのは、南北朝時代(1336~1392)
以降で、起源は荘園制に抵抗した悪党にあると考えられる。

 乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・草・奪口(だっこう)・かまり、など
地方により様々に呼ばれ、忍者という呼び名の定着は昭和30年代からである。

  戦国時代に各地の大名に召し抱えられて、敵国に侵入・放火・破壊
・情報収集などを行ったが、最重要任務は敵方の状況を主君に伝えることであり、
極力戦闘を避けて生き延びて戻ってくる必要が有った。
  周りが山の天然の要害に囲まれた伊賀・甲賀地方は、大名勢力が
弱くて自治が発達し、一揆を形成して武装していた。
  天正10年(1582)の本能寺の変後、徳川家康が堺から伊賀・甲賀を越えて白子(鈴鹿市)を
経由して、本拠地岡崎に逃れる際、伊賀者・甲賀者は山中の護衛をした他様々な戦いで
家康の先陣を切って戦ったことにより、家康は伊賀者・甲賀者を取り立てることになった。

  *今日の幹事、小森さんの郷里 岡崎市には、伊賀町に伊賀八幡宮が有る。
文明年間(1469~87)に松平四代親忠が、伊賀の国から勧請して創建した。
天文11年(1542)忍者として知られる服部半蔵(服部正成)が当地で誕生した。


                                         〈文章:小森孝敏

NINJAの様に精神力を高めました

九字法は、太陽や月、その他の
自然エネルギーを取り入れる動作でした

手裏剣は敵の戦闘力を減退させるため
相手に打って使用される
* このページは低速通信利用者に配慮して、画像解像度を押さえて作成しています。
  右の「スナップ写真コーナー」では、ここでご紹介出来なかった画像も含めて、
  少し解像度を上げた写真(拡大可)を掲げて、当日の雰囲気をお伝えしています。
スナップ写真コーナー
クリック (アルバムに写真多数)
 報 告


甲賀稲荷社~ 甲賀衆がお祀りしていた稲荷神社 ~

    青山権田原にあった甲賀衆の鉄砲演習場に、甲賀稲荷が建立されていたが、明治になって青山練兵場を作る際、ここ鳩森八幡神社の境内に遷座された。


西念寺~ 服部半蔵が眠る ~

  服部半蔵は 槍の半蔵といわれた人で、本能寺の変で家康を助け、後に江戸城の警備に重用された伊賀の忍者。この半蔵が開基した寺であり、服部氏の菩提寺として、半蔵をはじめ服部一族の墳墓が存在する。
  半蔵は、守役を務めた徳川家康の長男・信康が非業の死を遂げたため、出家入道して西念と号した。西念寺の山号・寺名は彼の法名に因む。


 祥山寺~ 忍者の寺 ~

  壁誉長老禅師が開山となり、文禄4年(1595)に麹町付近に麹町付近に創建、寛永年間に当地へ移転したという。伊賀衆もこの四ツ谷門外に移転させられ伊賀町となった。この寺は、伊賀衆の菩提寺として名高く 俗に忍者の寺と言ったという。

 鈴降稲荷神社~ 伊賀者の鎮守社 ~

  徳川家康が、伊賀越えの際に山中を彷徨っていると、どこからともなく鈴の音が聞こえた。その方向を探っていくと観音堂が有り、山名孝倫と言う者がいた。山名は、三個の鈴を取り出し家康に献じるとともに、付近の住民を集めて家康の警護をしたという。その後伊賀者は、家康に召し抱えられ四ツ谷に住む時に祠を建立してこの鈴を神鈴とし、鈴降稲荷神社として祀ったという。元禄8年に現在地に替地され遷座している

                            〈文章:小森孝敏〉
行事企画:小森孝敏   写真提供:山下・戸谷・田口